震災時、仙台市内に住む私が担当する被後見人は、在宅4名、入院中・施設入所中6名でした。電話が通じない状況だったので、まず、一番心配な認知症のAさん宅を訪問しました。時系列にまとめてみます。
| 3月11日(金) | Aさん宅を訪問。避難を勧めても頑固に動かない。 |
| 3月12日(土) | ケアマネと一緒にAさん宅を再訪。なんとか説得し、福祉避難所になっている近くの施設に避難する。 |
| 3月14日(月) |
担当区域が違うとの理由で、福祉避難所からの退去を求められる。 その連絡を受けて迎えに行くと、すでに一般避難所へ移された後だった。 一般の避難所では「家に帰る」と言い張ってじっとしていないAさんの相手をする余裕はないとの理由から、ここでも退去を求められる。18:00までとの期限を示され、私は慌てて市内の施設を探しまわり、ようやくグループホームを探しあてる。 17:00当該避難所にAさんを迎えに行くと、すでに避難所が民生委員を呼び強制的に自宅に戻した後だった。 嫌がるAさんを再度説得して、なんとかグループホームに移動する。 職員さんの対応で地震後4回目の夜にして、Aさんは、ようやく(安心して)就眠することができた。 |
地震から4日目になってようやく、電話や他の情報によって、入院中・施設入所中6名も含め、被後見人全員の安否を確認することができました。後日になって、支部のパートナー会議において、被後見人の安全確保という意味からも、後見人の車の「緊急車指定」は必須だと話し合われました。
一方、ツイッターやメールで入ってくる物資の提供情報や物資を求める情報に、対応し始めたのも4日目のことでした。宮城県社会福祉士会も現地調査を始めていましたが、私はすでに個人的なネットワークで動き出していたので、そちらには宮城県支部の方針が出てから加わることで了承を得ました。
奇跡
石巻市日和が丘……。その景色に呆然としていると、近所の高齢者が近づいてきて話し始めました。それは、私が口を挟むまでの30分間、途切れなく続いたのです。それは、救出が間に合わず火事になり瓦礫の下で亡くなった人々、目の前で引き波に飲まれていった人々の話でした。この方も相当傷ついているのだと感じました。報道される命が特別なのではなく、むしろ、全ての助かった命が「奇跡」なのだと思いました。
避難所の風景
炊き出しに行ったある避難所でのことです。牛肉の芋汁は大好評で、飛ぶようになくなりました。ところが、徹夜で作ったおにぎりが、あまり喜ばれないのです。また、ここで残った物資を近くの別の避難所に持参すると、涙を流して歓迎されました。避難所間での情報交換がなく、届く物資にムラがあることを知りました。
亘理町では、炊き出しも物資も十分とのこと。帰りに寄ってみたスーパーには、なんと仙台よりも格段に豊富な商品があふれていたのです。街が壊滅した北部沿岸地域と、地域機能が生きている地域の事情の違いも見えてきました。北部の小さな半島地域や南部の山元町などでは、5月に入ってもニーズ把握が不十分だったため、支援要請がありました。
まとめ
これらは、あくまで「僕の周辺状況」でしかありません。被災地では、医療チームや各種ボランティア、行政(相当な人数の他県チームも含む)、NPO、社会福祉協議会等がそれぞれに動いていました。ところが、全体を俯瞰しコーディネートする機能がありませんでした。あらゆる情報が、あちこちで梗塞状態を起こしていたのです。
震災直後の緊急時はともかく、時間が経ち、一定の知識を持った専門職のニーズ調査が必須と感じています。
(いわさき生活福祉研究所 代表 岩崎利次)



