現地に近づくにつれ、屋根瓦が剥がれ落ちている家や、瓦礫が流れこんだ畑が見えてきました。そして、南三陸町に着いたとき目の前に広がる光景(写真1)に唖然としてしまいました。海が見えないような、海岸から離れた場所にも、津波の被害が及んでいたのです。鉄骨がむき出しになった建物の上に車や船が打ち上げられ、線路もぐちゃぐちゃになっていて、以前どのような町であったのか想像することは困難でした。
しかし、少し高台にある建物はほとんど被害に遭っていませんでした(写真2)。この2か所の地理的な距離は、10㎞ほどしかありません。それなのに、ちょっとした立地の違いで、被害の大きさに「0」か「100」かというほど違いがあることに非常に強い衝撃を受けました。
しかし、少し高台にある建物はほとんど被害に遭っていませんでした(写真2)。この2か所の地理的な距離は、10㎞ほどしかありません。それなのに、ちょっとした立地の違いで、被害の大きさに「0」か「100」かというほど違いがあることに非常に強い衝撃を受けました。

(写真1)南三陸町志津川

(写真2)高台にある、平成の森という避難所
南三陸町に到着すると、私はこの町で最大の避難所だったベイサイドアリーナ(写真3)に設置された、災害ボランティアセンターのスタッフとして、受付業務を行いました。全国各地から駆けつける方がいて、東北の復興を多くの人が応援していることを実感しました。また、「じっとしていると津波を思い出してしまう、何かできることはないか」と被災者の皆さんもボランティアに参加していたのが印象的でした。

(写真3)ベイサイドアリーナ
ボランティアが行う作業はその日のニーズによってさまざまです。たとえば、避難所に送られてきた支援物資の仕分けや、瓦礫の中から探してきた思い出の品(写真など)の洗浄や、避難所の掃除、炊き出しの手伝いなどがありました。そのほかにも整体や散髪、大道芸や写真展など、ボランティアのスキルを活かした支援も行われていました。
現在は瓦礫の撤去も始まったそうですが、私が行っていたときはまだ一般のボランティアがこの作業に取りかかれる段階ではなく、週末など人手が特に多く集まる日はボランティアの数がニーズを上回り、午前中で受付を終了せざるを得ないこともありました。
しかし、これからは避難所に集団で生活していた方が仮設住宅などに移っていき、個々の生活が始まります。その際に発生する個別のニーズに対応していくためには今まで以上の支援が必要になってくると思います。
また、普段遠方で生活している方が長期にわたって現地での活動を継続するのに限界があるのは、仕方のないことです。
そこで大切な力となるのは、やはり、地元の方自身の持つ力なのだと思います。実際に、ある避難所では物資を受け取りに行く作業などを分担して、協力し合っていると聞きました。このような自発的な働きを尊重しつつ、外部からの息の長い支援が必要だと考えます。
私が南三陸町を離れる頃には、津波の被害に遭った景色に見慣れてしまったように感じました。しかし、本来の南三陸町は海にも山にも恵まれた自然豊かな町です。素敵な土地で暮らしていた方々が、少しでも早く落ち着いた生活に戻れることを願っています。
(明治学院大学 社会福祉学科 福田祐莉江)


