二人の天才からソーシャルワークにおける「メッセージ性」を考える

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 ワールドカップがイタリアの優勝で閉幕した。わが日本は予選リーグ敗退であったが、個人的には選手・監督共によく頑張ってくれたと思う。特に、ここ10年ほど、サッカー日本代表を文字通り「引っ張って」きた、そして今大会を持って引退を表明している中田英俊選手には、心からエールとねぎらいの言葉を贈りたい。

 ところで、今年の三月に行われたワールドベースボールでの日本の優勝に寄与した人物といえば、誰もが天才・イチローの名前をあげるだろう。特に普段クールを信条としているイチロー選手が、日本のためにチームを鼓舞し、熱いプレーで引っ張っていく姿は印象的であった。

 野球のイチローとサッカーのナカタ、最近メディアではこの二人の天才を比較して報道することが多い。同世代であり、共に海外で活躍しているスタープレイヤーであり、共に「孤高の天才」として知られる二人であるが、今回の世界的舞台での、その対照的な結果と姿を報道では特に際立たせている。

 かつて10年以上ラガーメンとしてスポーツに携わってきた私から言わせてもらうと、チームで行う競技の中で、その結果を一人の天才の力に落とし込むのはいかがなものかと思うが、確かにこの二人には大きな違いがあると感じる。それは、二人の行動や態度における「メッセージ性の違い」である。

 人は、誰かに何かを語ったり、それを態度や行動で示すとき、なんらかのメッセージを相手に伝えることが出来る。それは言葉そのものであったり、態度に表れて非言語的に伝わるものであったりする。そして実はこのメッセージを相手によりよく伝えるために重要なものは、言語よりも非言語、「何を伝えたか(内容:コンテンツ)」ではなく「どのように伝えたか(形式:コンテキスト)」であるといわれている。特に家族療法ではこの立場を重視していて、G.Batesonの「ダブルバインド説」などが有名であるが、ともかく、人は相手にメッセージを伝えるためには、表情や態度、声の調子、リズム、口調、語気などの「語り方」がより重要なのである。

 こうした視点でこの二人の天才をもう一度眺めてみると、両者で違いがはっきりする。私自身はもちろん、二人と一緒にプレーをしたこともないが、テレビの映像などから察するに、イチローは、特にワールドベースボールでは、「チーム内での自分の存在を意識」していたように思える。自分の言葉以外の態度やプレーそのものが、他の選手に与える影響まで考えてプレーしていたように思う。そこには意識的・無意識的両方のメッセージ性が強くあったように思える。対照的にナカタは、そのプレーは決して我侭ではないが、どこかいつも冷静すぎるところがある。自分の技量と他の選手の技量を正確に把握して、それを結果に残そうと努力しているが、イチローのように、中田英俊という自分の存在の影響、他の選手に与えてしまう無意識のメッセージにまでは目を配っていないように思える。そのプレーの内容、特に他のチームメンバーに与える影響という面から見ると、両者のメッセージ性は大きく違う。それは、むろん、優勝と予選リーグ敗退という結果の差はあるとはいえ、ワールドベースボール優勝後の祝賀会での、まるで子供のようにはしゃいで、完全に後輩や他のチームの中に入っていたイチローと、ワールドカップ最終戦の後、ピッチの中央に横たわって顔を覆い、なおかつ迎えにきた宮本選手にも応じなかったナカタとの、二人の天才の、この言葉ではない態度のメッセージ性の違いとチームメンバーの態度の差から見ても明らかである。

 また、二人のメッセージ性の違いは試合後などのインタビューの様子を見ても明らかである。ナカタはインタビュアーに対して、淡々と、聞かれたことの要点だけを抽出して、感情を交えず話している。表情もあまり動かず、まさに「答えている」という印象である。しかし、イチローは、同じようにインタビュアーの質問に的確に答えてはいるが、カメラに向けて時折目を大きく見開き、声にも強弱や長短の調子をつけて、「答える」というよりはむしろ「語っている」という印象である。おそらく、イチローはナカタに比べて、よりカメラの向こう側の視聴者、特に自分や野球選手にあこがれる少年たちを意識しているのではないだろうか。ここに、イチローのメッセージ性の違いが伺えるのである。極論ではあるが、日本の野球少年たちは、「イチローのようになりたい!」と強く思えるであろうが、サッカー少年たちは「ナカタのようにはなれないだろうなあ・・・」と思えてしまうかもしれない。

 誤解のないようにしたいが、私はイチローもナカタも大ファンである。二人の天才の、天才たる所以、その技術の高さにも気位の高さにも脱帽し、海外という大きな舞台で、日本人の大きな期待の重圧の中で結果を残している両名に憧れている。しかし、この二人は明らかに「メッセージ性」という部分で、違った天才なのである。

 そしてこの「メッセージ性」というのは、ソーシャルワークなどの対人援助の場でも非常に重要なことであると考える。私たちは普段、クライアントという個人、あるいは家族、あるいは地域などのシステムを対象に援助活動を行っている。その活動は、どのような方法を用いるのであれ、やはり言語的な活動が中心であろう。特に社会保障などの制度とクライアントを結びつける場合には、言語的な情報提供活動が主体となる。しかし、私たちの活動は、まさに対人援助でもある。私たちは制度普及を支援しているのではなく、クライアントがよりよく暮らせるような環境を一緒に考えたり、作り上げていくことを通じて、「人を支援」しているのである。こうした活動には、やはり「メッセージ性」は欠かせない要素となるだろう。私たちがクライアントと接するときの、言外の態度、語り方、表情、その場の雰囲気は、私たちがクライアントに伝えるべき言語的な情報よりも、はるかに大きな影響をクライアントに与えるものである。メッセージ性のないソーシャルワーク活動は、どこか、血の通っていない、対岸の火事的な援助者の印象をクライアントに与えてしまう可能性がある。私たちはそれを厳に慎まなくてはならない。

 では、ソーシャルワークにおける「メッセージ性」とは何か。それは、私たちが活動をする上での、もっとも根源的な部分に集約されている。その根源は、あるときには「倫理綱領」として、またある時には「バイスティックの原則」として、形を変えて現われるが、私たちそれぞれの実践の中に、言葉としてではなく、態度として身につけておかなくてはいけないものである。あるセミナーで若いソーシャルワーカーが、「倫理綱領は背中で語るものだ」と言っていたが、私はこの言葉にまさに賛同する。実践の中で、ソーシャルワーク活動を行いながら、その言外の「メッセージ」として、「私たちはあなたを人として尊重している」「私たちはあなたと一緒にこのことを考えていきたい」こと、そして「私たちはあなたを信じている」ことを伝えていくということの態度が、対人援助の場では技術以上の価値観として必要とされるのであろう。

 イチローもナカタも、ともにすばらしい才能を持っている。しかし、繰り返しになるが、その才能が集団の中で結果として、また周囲の者の力を引き出すためのきっかけとして用いることが出来るかどうか、彼らの「メッセージ性」のあり方によるものが大きいと思う。そしてそれは、ソーシャルワークなどの対人援助の場においても同じことが言えるのである。周囲の力を引き出すための「メッセージ性」は、エンパワメント理論とも一致するのである。

 

2006年7月12日

welfare-net21会員 花輪祐司