対人援助としてのスクールソーシャルワークの視点とカウンセリングの視点からの比較
はじめに
筆者が常勤講師(臨床心理学講座・社会福祉学講座)として勤める民間の社会人専門予備校では、所属生徒によって一人ひとり進路が細かく異なるので、随時進路相談を実施している。また、入学希望者に対しても進路相談を同様に実施している。しかしながら、その話しの内容によっては、単に進路相談だけにとどまらず、個人的な様々な悩み事にまで相談が及ぶ場合が多い。そうなると進路相談というよりはむしろ、個別のスクールソーシャルワーク的な援助の様相を呈してきたり、さらに臨床心理学でいうところのカウンセリングの状態になったりもする。進路相談では、ふつう面接を通して生徒の話を聞く。そして、その過程において、生徒が抱える問題の原因となっている感情の抑圧を明らかにしていく。これは、生徒の立場からみると、自分の抑圧してきた感情に気づき、その感情を援助者に話すということになる。つまり、あるがままの感情を表現して、それを受容してもらうという経験が前提となってくるのかもしれない。
このような状態になると、これはスクールソーシャルワークという考え方で、とらまえることがよいのだろうか。あるいは、臨床心理学でいうところの面接技法・カウンセリング技法として考えた方がよいのだろうか。進路相談を実践する場合はふつう予約制にて、前もって相談内容を専用のシートに書いておいてもらったり、進路相談の際にこちらが記入したりする場合がある。しかしながら、内容が複雑になり、すぐに理解がしがたい場合などは、生徒に少し時間を与え、書いてもらってからまたふたたび進路相談を続けていく場合が最近多くなってきた。つまり、相談の際には、会話のみならず記入することを利用することにもそれなりの効用があることが判明してきた。そしてそのことが何よりもカタルシスになっているという訳である。
本稿では、予備校での単なる進路相談の範囲を越えた個別のスクールソーシャルワークやカウンセリングの実践という枠組みで、カタルシスの効用等を考慮にいれながら、単に進路相談を面接として位置づけるのではなく、社会福祉学でいうスクールソーシャルワークの実践、あるいは臨床心理学的な視点からのカウンセリングを実践する面接技法としての立場から、若干の考察を試みることにした。
1.筆者の考える面接過程
筆者は、面接過程には大きく分けて、2つの考え方を想定している。
1つは、状況を中心として原因を考えないで、もし考えた場合でも、それを現在の計画の中に含めてしまって行動を修正しようと意図する場合。つまり、スクールソーシャルワーク的な考え方である。もう1つは、原因まで探って、生徒の転移を、つまり不合理な、不本意な自分でもおかしい、自動的な反応様式を再び治療者との間で体験して、そのおかしさ、不合理さに気づいて新しい行動を取れるようにする場合。つまり、カウンセリング的な考え方である。
もちろん、原因の追及も加えて認知行動療法等を実践することも考えられる。また認知行動療法的なものが中心だけれども、原因をも含めようという考え方も存在する。原因の重要さ、つまり生育の歴史の影響も十分に考える。と同時に、車の両輪のように、行動も具体的にいろいろな形で修正をして行こうとする。分かることと変わること、行動の変化と原因の理解の両方を扱っていったほうがより効果的ではないだろうか。精神分析家の中でも正統派の立場をとるならば、症状がとれたり、行動が変わったりすることは問題ではない。自分に気づくこと、なぜこういう自分ができてきたかを洞察させることが、つまり、人格の再構成が治療の目的であると言う方もできる。特に無意識の不安や罪悪感を洞察することが重要である。自分の真実の姿を知って初めて成長するのであろうか。
精神分析的な志向をもったスクールソーシャルワーカーやカウンセラーは、例えば、本校の生徒の場合、学校へ行く、行かないは問題ではない。父親に対する恐怖と本当に自分がしたい願望との間の葛藤を洞察して、権威的な人にも恐がらずに自己主張できるようになるまで自我を強める。この段階まで成長すれば、自然に学校へも行けるようになるというように考える。つまり、精神分析はかなりの時間とエネルギーが必要となる。一般に少なくとも人格が変容、成長するまで2年、3年かかるほどである。しかし、本質的な人格の再構成が起こる可能性も否定できない。
認知行動療法的なものでは、症状行動は比較的に短時間で改善される。例えば、乗り物に乗るのが前よりは少し恐くなくなったという変化は割合早く体験できるようになる場合があるが、人格の再構成はふつう起こりえない。動物に平気で触られるようになった。屋上にも登れるようになった。他人が恐くなくなった。でも何故あんなに恐かったのか原因は何か分からないということであろう。しかも、進歩と変化が報酬として作用する、というオペラント的な効果も否定できない。
ここまで筆者なりの進路相談としての面接の枠組みを考察してみたが、次にスクールソーシャルワークやカウンセリングの基礎的なものとして考えられている面接法に関して、主として心理学、社会福祉学(社会学)の視点から述べてみる。
2.面接とは
心理学領域での面接法は、世論調査や態度調査、あるいはカウンセリングやガイダンス、臨床心理における診断や治療に用いられる。面接の定義は最も簡単に言うと、一定の目的を持って行われる会話ということになる。この定義から分かるように面接法は人と直接話をして行われるため、面接者と被面接者とが相互に影響し合い、主観的になりがちである、面接者がバイアスを持つ、という特徴がある。こうしたことは心理学において心的現象を科学的に解明しようとする場合、客観性の保持が重要視されることからみるとマイナスである。客観性だけを重視するのであれば面接法より質問紙法や実験法などの方がよいくらいである。
しかし質問紙法などによって把握されるのは意識的側面であり、合理的、社会的な判断にもとづく応答しかえられず、必ずしもそれが行動と一貫した応答とは言えないということがある。そこでもっと被面接者の心の深層を知りたいと思ったときに面接が重要になってくるのである。人間は基本的に自分の主観的な世界に住んでいるものであるとする考え方から主観性は排除されるべきでなく、面接においては主観性と客観性の両方をもつことが重要である。なお面接は、一般的には一対一で行なわれるが、集団面接や催眠面接なども存在する。
心理学の技法としての面接には治療のための臨床実践のための面接と資料収集のための調査を目的とする面接がある。この2つの相違は治療と資料収集という目的と面接の動機づけという点である。臨床的な面接は被面接者の方に動機づけがあり、調査的面接法は調査者の方に動機づけがある。そして臨床的な面接では治療即研究という前提があり、研究目標にそって行うのではなく、個々の事例に対して治癒という目標に向かいつつその中で分かったことを体系化していくことになる。
調査的な面接の特徴は、実際に面接者が被面接者に会い、双方向からのコミュニケーションが可能なことにある。対面しながらによる調査は、質問への誤解や疑問を解消することができ、また面接をうける生徒の意識や経験を途切れ途切れではなく文脈として捉えることができるのである。さらに直接話をすることによって予定外の新しい洞察が得られることもあるのではないだろうか。
面接は技法としては、面接の構造の特質から大きく分けて構造化面接(structured interview)、非構造化面接(non-structured interview)、半構造化面接(semi-structured interview)に分けられる。
構造化面接の場合は、面接者と面接を受ける生徒が、面接というはっきりとした目的のために会い、またお互いの立場は決まっており、交換されるようなことはあまりない。また面接する場所もプライベートな場というよりは、面接室といったフォーマルな場が普通である。また、手順としては質問していく項目やその順番、内容はあらかじめ決められており、面接者の言葉遣いまでも厳しく決められていることが多い。質問事項が書かれてある紙を読み上げることが多い。これによって異なる事例を対象に一群の変数が導き出されること、信頼性の高さが保たれること、面接者の言葉遣いによる回答の差異、というような問題の回避ができること、といった長所がある。世論調査や街頭インタビューなどでこの方法はよく用いられる。しかし、この方法は通常会話のような自然さに欠ける。この問題を考慮し検討していく立場として、構造化面接と対極の位置にあるが非構造化面接である。
非構造化面接は構造化面接ほどの役割規定はない。一般に自由応答式質問で行なわれ、カジュアルで自然な相互関係を重要視し、被面接者に応じて指示や質問の仕方、順序を変更することもありうる。面接の場も生徒さんが話しやすい雰囲気を保てるようにフォーマルな場に限られることはなく、プライベートな場など、あらゆる場所が可能となっている。基本的には生徒さんの自発的な会話に頼ることになり、面接者はそのきっかけとなるような情報を提供するのであって綿密な構成は必要とされない。しかし、面接者はただ思いつきで進めるのではなく、あらかじめ研究課題の解決に必要とされる情報は何か整理し、かつ重要と思われる点をおさえおくことが、効果的な面接を実践する際に考慮しておかなければならない。 この方法は先の構造化面接と比較して次の点で優れている。同じ言葉による質問でも、生徒により背景となっている脈絡において意味合いが異なる場合がある。従って、それに柔軟に対処できること、また正確な回答が得られやすいことである。以上の事から分かるように構造化面接と非構造化面接は対極をなしているが、本学では、面接を行う上では両方の性質を考慮して実践している。その両者の折衷的な方法が半構造化面接である。
面接者と生徒との役割関係は固定されているが、同時にインフォーマルな態度で親しみやすい関係になるようにする。そのために、場所も非構造化面接と同様に対象者が落ち着けるような場、例えば本校で言えば、面接室ではなくて、空き教室などをよく利用する。基本は非構造化面接で、質問するべき事項があらかじめ設定されている場合が多い。しかしこれは詳細な設定をせずに、柔軟に状況に対応することで、自然な態度で生徒と接することができる。
面接者と生徒の間に、相互理解の上に立った情報のやりとりとそれにもとづく正しい知識、ないしは洞察の獲得が期待される。そのためには、落ちついた雰囲気作り、相手との信頼の構築、相手への共感と理解提示、面接者自身の非主導的態度、相手の自由な発言の助長、1回の面接時間は相手に疲労や倦怠を起こさせない程度にしておく、といった心構えを忘れてはならない。本校では、どのような場合も1回の面接は、1時間程度に設定している。
3.面接内容に関する会話分析的視点
社会学においては、面接での内容を会話分析することで、探究する手段がとられるが、その中でも「エスノメソドロジー」は、現象学的社会学と並んで、現代社会学の最も重要な流れだと言える。難解といわれてきたエスノメソドロジーの理論とそのユニークな方法である「会話分析」をかみくだいて理解すれば、進路相談という面接場面の理解のみならず、障害者・被差別部落・女性差別・暴力をトピックとするインタビュー・会話録・討論会・テレビドキュメンタリーの会話分析を実践することが可能となる。状況外在的な常識的判断、価値、評価、科学的概念使用などを重要視しないエスノメソドロジー的無関心という手続きは、いったいどのような意味をもった実践なのであろうか。対象とする現象の適切さや妥当性など、いっさいの意味を括弧にいれる方法的要請なのか。人が他者とともにつくりあげる現実である排除や差別という現象に、はたして本当にそうした手続きが可能なのか。実験室的な状況を想定した面接場面なら、それも可能かもしれない。しかし、人々が現実に暮らしている日常というローカルな場、学校での進路相談という面接場面におりたつとき、エスノメソドロジストであろうとなかろうと、中立的な人間でいられるはずはないだろう。人々の語りに驚き、感動し、さまざまな「方法」を直接的に把握するとき、エスノメソドロジー的無関心という手続きをいとも簡単にのりこえ、ローカルな進路相談という現場にさらされていく。それでも、エスノメソドロジストは中立的な人間でいられるのだろうか。エスノメソドロジーとは何であるのか。社会学を革新いていく方法的手続きという位置づけをこえて、面接者の日常までも巻きこんだ知的な営みとして、エスノメソドロジーを構想できないだろうか。こうした問いが筆者をここでの日常の進路相談という面接場面での生徒とのやりとりに関する論考へと深めるのである。
近年,教育に関する臨床的研究が提起したことがらのひとつは,教育場面において不可避に生じる問題状況の分析において,従来の教育研究が実効性を失っているのではないかということである。しかし,現在教育学の領域で提案されている教育臨床ないしは臨床教育学の多くは,そのことに充分応えきれていないのではないか。
本校では、ややもすれば現実の進路相談のための面接以外に、メールによる相談も受けつけている。これなどは、確かに面接ではないが、進路相談に応じている現実が存在することになる。CMC(Computer-Mediated Communication:コンピュータを介したコミュニケーション)をエスノメソドロジーでいう会話分析を用いて観察する意義とその方法を取り入れればどうだろうか。まず、コミュニケーション・メディアの技術的改変によっていかようにもそのかたちを変えうるCMCの相互行為的特徴について、会話分析を用いて行為者の日常的理解に沿って記述することの意義を考える必要がある。次に、CMCの会話分析を順番取得システム概念で見ることの有効性に疑問が呈されていること、データの収集法についての見解がわかれていることを考慮し、会話の過程をコンピューターの画面を利用して記録し用いることで、CMCにおける順番取得が参与者自身にどのように志向されているのかを①「人-人」間、②「人-コンピュータ」間相互行為の2つの水準において見ることが可能になると考えられる。メールによって収集された初心者どうしの会話データから、タイピング中のメッセージが公的なターンとして理解可能になるように「人-コンピュータ」間、「人-人」間で相互行為的な編集作業などが行われるだろう。
CMCの相互行為を①「人-人」間、②「人-コンピュータ」間で分ける意味はあるのかということ、データの収集法が実験室的にすぎること、メールに慣れてゆく過程を追うことで効率的な発話交換ができるようになってゆく過程で何が行われているのかを見ることができるようになるのではないかということ、日常会話と違ってそもそもCMCはモチベーションのある者しか使用しないこと、といった問題は今後の検討課題であろう。つまり、行為者が彼らの行為のために(そして彼らの行為、つまり個々人の進路相談及び個人的悩みの相談によって)社会的秩序を生成する方法(Methode)がエスノメソドロジーの研究の対象となったのである。エスノメソドロジーはシュッツの構成概念を変化させたが、その社会的意味生産のモデルを変化させていなかった。
むしろこの変化によって引き起こされたのはシュッツモデルの内的論理である。というのも、シュッツにおいて自我と結びついていた経験の構成を、ガーフィンケルが極めてラディカルに社会的相互行為の現実に移行させたとき、主観性が逆転したからである。エスノメソドロジーにおいては、自我の経験プロセスは完全に度外視され、その代わりに社会的相互行為が秩序構造の生産される場としてとらえられることになる。
シュッツが、自我の体験意識を出発点としていたため、進路相談という社会的行為を事象の共同的な変更のプロセスとしてとらえられなかったように、エスノメソドロジーは、意味の構成過程を社会的行為に置くため、自我の経験、個人の悩みにまで入り込むことができない。社会的互行為の反弁証法的基本モデルが維持されているため、エスノメソドロジーは理解社会学の暗黙の了解事項を持ちつづけていることになる。まさにこのモデルこそが、学問的研究の他の側面である個人的悩みの相談を実践中という面接場面の現実を排除しているのである。
シュッツの認識理論的立場(これに従えば体験が社会的経験にとって唯一の確たるもの)から、ガーフィンケルは実現される現実というテーゼが相互行為的に使用されるのである。(すなわち、社会的現実は行為の実現においてのみ与えられる。)「主観的意味」と「客観的意味」とを対局化させたシュッツのテーゼは、他者の意味を完全に理解することはできないというものであるが、これがガーフィンケルにおいては日常世界のそれぞれの経験の「唯一性」として立ち現れる。すなわち、面接場面での筆者や生徒がその発話や行為と結びつけた意味は、その場の場面やその行為者の個人性と結びつきがあまりにも強いため、その間主観的な理解可能性は行為者にとってきわめて大きな問題となるわけなのである。
両者において共通しているのは、現実が点的に生産されるという考え方である。シュッツにとっては個人が相互行為で得たマテリアル(材料)に関して行う解釈のプロセス、エスノメソドロジーにとっては社会的相互行為における秩序構造のローカルなマネージメントである。
エスノメソドロジーの提唱者達が異なる場所において、様々な言い方で社会学の客観主義に批判的な立場をとっていることは、エスノメソドロジーの隠された実証主義というテーゼとは矛盾しているように思われるかもしれない。この批判は、あらかじめ客観的に見積もることのできる法則性があるという見解に対する否定に、対象領域と直接関連する前に存在するかのような方法論の否定に、そして社会的現実の変化の強調、という点に見出せる。
たとえば、対象領域が常にあらかじめ構造化されていることを認めない伝統的社会学を、エスノメソドロジストは方法論上の問題と非難してきた。
サックスはアカデミックな社会学が多くの場合トピックとリソースとを混同していると非難した。アカデミックな社会学は社会的現象を理解するために日常生活のことばを用いるが、この日常生活のことばそのものが社会現象の一要素である事実を考慮していない。伝統的社会学がその研究の道具として見ているものが、すなわち、日常生活のことばである「役割」「性」「社会的層」という表現こそが、彼らが好んでいる研究対象(トピック)であるはずであり、そこに含まれている内在的なカテゴリーはもはやその方法論に暗黙の了解としては存在すべきではない、という。
エスノメソドロジー的会話分析(EK)があらかじめ存在している方法論の目録をはっきりと拒否するのは、とりわけガーフィンケルの研究の成果である、「日常生活に存在する規則は決して一義的ではない」という立場に基づく。
さらにアトキンソンらはこの伝統的社会学に対する反実証的批判に加えて、この社会学者たちの一人があらかじめ作り上げた秩序の図式によって生産された社会の悲しむべき姿を描いている。
ガーフィンケルが導入した説明に従えば、3つのプロセスが等価になる。この3つのプロセスを区別したことが、理論的問題の起源である。
相互行為の実施
相互行為の記述
相互行為の説明
これによって、ある発話は説明という概念から、3様にとらえられる。
その発話によって相互行為がなされる
その相互行為によって生じた意味が呈示される
なぜ、その文脈においてその相互行為が適切であったかが説明される
これと同じ構造はサックスにおいても同様に見受けられる。サックスの疑問は、can we find order? how to provide for the order?というものであった。
会話における観察可能な秩序も自ら説明される。というのも、進路相談の面接場面の生徒の会話から問題が再構成され、その問題の解決もまたその会話においてなされるからである。他方、その会話の中に方法論上の装置も含まれていることになる。とすると、あらかじめ構造を持つ言語、歴史的伝統、個々の発話を包括する行為の連関を完全に度外視して会話が分析されることになる。
この点で、エスノメソドロジーはシュッツの理解社会学と同じである。EKは、会話の相互行為において見出した社会秩序や規則が、実際に現実の言語的相互行為とどの程度適合しているのかを決定することができない。EKは、単にシュッツの二分法だけを受け継いだのではなく、その二分法の前提も保持した。すなわち、社会的意味の発生を言語的知識を度外視して説明しようとする方法である。エスノメソドロジストにとって、社会やコミュニケーション構造について何らかの一般的言明をすることは不可能である。相互行為者の知識との関連や観察者の仮説との関連である特定の相互行為の文脈に関する体系的、分析的解明をエスノメソドロジストは行わない。なぜならば、すべての相互行為はそれぞれ特有の文脈において、原則的に無制限の行動形式の中から、それぞれの相互行為の進行過程に従って選択され、生産されるからである。この研究方法に内在する弱点は「エスノメソドロジー的無関心」という原則によって美化されて(美徳として)とらえられている。ガーフィンケルやサックスは、「エスノメソドロジー的研究は、どこで、誰によってなされたものであれ、社会の成員によってなされた形式的構造を持つ表現を記述することを目標とする。ただし、その際、その表現の適切性、価値、有意味性、必然性、実用性、成果あるいはその結果に対するすべての判断を控える」と述べている。この現実及び事実の理解方法を実証主義的認識理論と関連づけるならば、エスノメソドロジーに潜在する実証主義が明らかになる。実証主義的研究方法の特徴、例えばここでは、実際の進路相談という面接の場は、できる限り偏見を取り除いて獲得した多量の材料から一般的法則を構築し、その事実に関するデータに内在する秩序構造を明示的に分析する点にある。その中心的仮説は、この法則が経験的データ自身を組織する一般的構造に適合するというものである。
実証主義的現実像とエスノメソドロジーが、認識論上の前提とする事実の自己透明性とを同定することができる。もちろん、伝統的な実証主義は、人間の認識が観察された現実に潜んでいる構造的法則を間接的にのみ把握することができるとしているのに対して、エスノメソドロジーは、観察可能で記述可能なそれぞれの個別的相互行為の過程の自己再帰性によって、面接場面での事実の内部に存在する一般的法則が伝達でき、そこに直接的な現実性が顕在すると主張する。実証主義者によって対象化された一般的なものと特殊なものとの間にある一致関係が、エスノメソドロジーにおいては単に自明なものとしてとらえられる。この面接の場におけるエスノメソドロジー的観点からの事実性の記述は、事実が事実性が記述されるための前提であるのと同じ様に、事実を構築する。そこでは、理論は実践と相互関係になく、無数の無定形の事実をあらかじめ構造化するための支えではない。
ハーバーマスはエスノメソドロジーを、現実に存在する一般的な法則によって客観主義を退け、その代わりに理解過程の一般的構造の中に理解の客観性の条件を見出そうとする社会科学の一変種として見ている。ハーバーマスによれば、エスノメソドロジーは確かに観察された日常実践の個別性を考慮するばかりでなく、進路相談という面接の場における面接者の構成的参与を考慮している。とはいえ、そこから引き出される一般的コミュニケーションの条件に関して、それぞれの成果を相対化することができない。この批判はエスノメソドロジストの自己理解を誤解している。
基本的にエスノメソドロジーは、実証主義的事実概念を更にラディカルにとらえる。一般的なものと特殊的なものとの関係を実証主義は一致すると描いたが、エスノメソドロジーは、単に同一のものととらえる。より正確にいうならば、コントの分類的実証主義的立場を更に遡り、「感覚主義」の立場にまで逆行するものである。現実性に関するラディカルな見方は、テープ、ビデオ、転写などの役割によく現れている。伝統的実証主義者が個別データを抽象化(一般化)可能な基本言明へともたらす基本命題を記述するときに抱えていた困難を、エスノメソドロジー的観点では、面接者の観察したデータを技術的に再生産することで処理することになるのである。
4.面接場面での被面接者の表現に関する精神分析的解釈
自我意識は、精神分析的には現実の当事者で、記憶の総体である自我全体からみると、その一部でしかない。見方を変えると自我意識は、自分の肖像を見つめる客観であり、どこか他人のような存在でもある、実際、自分は何を考えているのかという表現があるのだから、自分が何を考えているのかさえ分からないのが自我意識という事になる。そこで自分の気持ちとか、自分の考えとか、その言葉を語る、私という自我意識構造は、自分自身の客観的な当事者であると言えて、我思う故に我在りという言葉の真意は、自分の考えと、気持ちではなくて現実の私はこう思う、という自我意識の独立的思考の事と考えられる。だからこそ、我ここに実存するのだとなる。後者は確信的自我意識の過去からの独立であり、前者は従属的な、自分の代弁者である。つまりその自分が、社会的存在として実存する事が、自我にとって自然なことで、何らかの原因によって自我意識が独立して考える主体になるのである。この経験が長いと後者の方が自然になる。どちらが優位かということなのではない。
そうすると、今現在、我思う故に我ありなのだから、例えば、記憶は記憶そのものだけの存在ではない。記憶というのは、その記憶のファイルの仕分けや階層構造の論理込みの存在で、だからこそ記憶は大幅に変わる可能性を常に持っているのであり、意識されない論理もしくは受動的な意識、つまり、無意識の総体ということになる。 これに対してフラッシュバックや現前のことを担当する自我もある。対立するものではないけれど、常に合理的に融和しているはずはなくなる。時おり既にわかっている事への障壁として記憶構造が干渉するように、自我と無意識には多数の矛盾あるいは対立概念が混在している。記憶術という言葉を聞くことがあるが、ほとんどは連想法である。実際脳の中でも、図柄なんかは象徴的な形に分類されてそれぞれに印がつくように統制されているので、象徴的に分類されないものは気にとまらない、つまり記憶できないものなのである。
言葉の世界から見ると、解釈の無い記憶はできないとか、その反対に強く象徴的に分類されていたり、その連想として関連事項に処理されているものは、つまり気になるものはよく記憶されているので、記憶は、ある特定の傾向で連なっている。この特定の傾向が、人格と呼ばれたりアイデンティティになるのだが、これを証明する簡単な方法は一応存在する。何かを描写することである。これはものを見る時に、記号的な分解処理系あるいは印象系かの違いでもって、個別の事象を証明している。
そもそも、進路相談の面接場面で生徒が示す記憶としての葛藤が、本人への負担として被るという受動性とどう関わっているのか考えてみる必要が出てくる。
葛藤は、感覚としてその本人には、超自我として確認されるので、見かけ上道徳的判断としての拘束力、結果としては脅迫性を持つ。つまり、その存在を感じる時には、従わざるを負えない、もしくは許せないものなので、この状態自体が苦しみであり、古代悲劇の話に似た状態になるのである。この被るという構造は、葛藤が成立する環境をそのまま人格構造に置き換えたと考えてよいだろうし、その反対が投影だから、この葛藤が追体験的に別の人間関係に投影されやすい事もここから分かる。超自我、自分の自我を超越する自我、親やそれに相当する権威という超自我は、親との依存関係から、反抗期つまり印象としての親の現実的な親からの反抗、自分の考えとして取り込み、聞く事から自主的判断へ、という過程を経て自分の考えとして、その概念や関係を取り込んだ結果なのである。要するに葛藤は皮肉にもこの超自我と同じルートで取り込まれるのである。葛藤つまり自分の自我を脅迫可能な自我、そして親やそれに相当する権威と考えてしまうことに結びついてしまう。
要するに、進路相談という面接場面ではあっても、人の現実認識は一面では無いので、全ての認識に相反しない要素を排除するなんて事はとても困難である。実際この相反する要素を明確にするために、概念の順列もしくは階層を位置づける超自我というものが存在し、自我的には、この思考の秩序性のようなものが整理されてくると、自分自身の中で結果としての結論が出るので、葛藤の存在を意識する事は少なくなってくることだろう。
本学での進路相談の面接の際に、生徒さん自身ができるだけ自分自身の力で、自分の葛藤や悩みや困難さを整理整頓できるよう、考え方にある一定の秩序性をもたらすことができるよう、面接する側は側面的なサポートを実施するように心がけているところである。
5.面接場面での精神分析的アプローチ
筆者は、悩みを抱えた被面接者として生徒の心的緊張の問題を、無意識的に、進学する本人としての自分を隠すのにある種のマスキングがかかっていると考えている。こう考えれば、意識は緊張して表面化してはいけない、嫌悪感や罪悪感で意識を集中すると、個人的な悩みは意識を中心にした物語への対応を自分自身に迫るので、進学するという根本的な問題はマスキング効果で、忘れ去られてしまい、自分で解決できる範囲を超えるので問題としての自覚すら薄れてしまっているので、進路相談の面接の場においてさえも、個人的悩みが全面に出てくるのではないだろうか。
ところが、学歴がまだまだ重要視される現代社会がそうであるように、もし他人が、例えば進路指導を担当する者が安易な感じで何かをつきとめかのように、その生徒さんに接触したらどうだろうか。進学のことで何か悩んでいるのではないですか、言ったりすれば、ここで、マスキングされていた進路の問題は再浮上し、悩んでいる個人的な問題から意識が緊張する中心の状態へと変わってくる。これは一種の精神分析的解釈と考えられるのではないだろうか。悩んでいる生徒さんは、自分の個人的悩みも一人で解決できないような状態である。私はどうしたら勉強して上の学校に進学できるのでしょうかと、個人的悩みの問題の解決に関して相談されるのだが、一般のカウンセリングと違い、精神分析的アプローチからすれば、問題は進学の際の学力問題や入学試験にあるのでしょう、ということになる。
相談されている事象を平然と無視しているように見えるのだが、確かにケースによっては自己嫌悪の反動による反発がおきたりするが、つまりは相談した事だけに答えてほしい、ということになるのだが、話の構造から問題点を浮上させてこそ、本人だけで解決しないのは、悩んでいる問題自体が結果的に進学問題をマスキングするための問題になってしまい、それ自体を単体で解決する事は構造全体を温存し、一時的に苦痛が和らいでも、先送りになる。
つまり話を聞けばその全段や後段で、何が問題点なのは本人から話を聞く事ができるのであって、面接する側にとっては無理な推理や推定をする必要は無い、聞いたままを受け止めれば良い。一般には、この場合の個人的な悩みの問題は、実は生徒さん自身が問題にしていない話なのに、話の中でもついのめりこんでしまうのだが、そこに全体像を見渡す中心点というべききっかけ、この場合は進学の問題が、隠されているという解釈が成り立つことになる。
このケースに該当する生徒さんと本当に個人的な悩みの問題を相談したがっている生徒さんの割合は、筆者の感想では今のところ、ほぼ半数ずつだと考えられる。
6.不適応に対する解決方法
欲求不満を解決するための方法としては、3つの解決法を提唱したい。まず、言葉でそのことを表現する言語化(verbalization)がある。次に、行動で表現する行動化(acting-out)、さらに、身体の症状として表現する身体化(somatization)がある。
言語化とは、たとえば、腹が立つときには、ありのままに腹が立つと、相手に言葉でいうことである。これが一番健全な表現方法である。しかし、先に述べたように、コミュニケーションの構造がゆがんでいるときには、この当たり前の方法ができない。このような場合は、感情がうまく表現できていない状態である。
そのような時には、行動化ということが起こる。たとえば、小さい子どもが言いたいことがあるのに適切な言葉が出てこないようなときに、ただわめきちらして、親を叩いたりする。また、相手に直接感情をぶつけられないときに、ドアを蹴ったり、物を投げたりするような、物に当たるという行動にでたりする。このような行動化は分かりやすいが、一般的に分かりにくく非行や不登校、家庭内暴力などの問題行動といわれることは、ほとんどの場合、この行動化が起こっていると考えられる。さらに、行動化でも表現できない場合には、身体の症状として表現されることがある。これが身体化といわれるものである。不登校児の身体的不調を訴える行動などである。これは、大人でも起こり、胃炎・下痢・頭痛・腹痛・肩こりなどの症状がそれにあたる。表面的には、行動化は派手に見える。それは、周囲の人にはっきりとわかり、また迷惑をかけられるといった特徴があるからである。しかしながら実際は、欲求不満の表現という視点から見ると、身体化の方が重症である。ただ、周囲の人にはそれほど迷惑をかけるということではないために見落とされたにすぎない。
7.不適応状態に対する面接の役割
行動化や身体化は、あるがままの感情が言葉で表現されるという健全なコミュニケーションができず、そのために欲求不満が解消されないことが原因で起こる現象である。スクールソーシャルワークやカウンセリングでは面接を通して、このようなゆがんだコミュニケーション方法を変化させて、より健全な方法で言語化を促進する場合が考えられるだろう。
欲求不満になるような感情の原因となる親の言動等に対して、直接表現することが一番良い方法である。しかし、それができない場合に、そのような感情の内容を面接者が聞くことで、直接ではないにしても表現でき、受け入れてもらう体験につながっていく。つまり、スクールソーシャルワークやカウンセリングによる援助や治療とは、実はこのような欲求不満や不安をもつ生徒さんの行動化や身体化という非言語的手段での感情の表出を、スクールソーシャルワーク関係もしくはカウンセリング関係という批判や報復のおそれのない安全な場(safe space)を与えることによって、言語化させることにある。そして、スクールソーシャルワーカーやカウンセラーは、このようにして親や社会によって作られ、出口を見出せない欲求不満や恐怖にみちた感情に、受容的、許容的な関係を与えることで言語化させる。スクールソーシャルワーカーやカウンセラーは、親になりかわって、生徒さんのうっ積したこの種の悪感情を表出し、受け止める機会、人間関係を与えているのだ。面接者が親という重要な他者の代わりになり、あるがままの感情を受け止めることで、その人がこれまで形成して、自分の行動様式となっている対人関係のゆがみやゆがんだコミュニケーションを健全な方法に変えるという意味を持つのである。
しかし、実際に生徒さんと面接すると把握できるが、言語化を図ることは難しい場合もある。生徒さんに話してもらうことが大切であることは理解できるが、なかなか話してもらえない。自分のあるがままの感情を出さないことが良いことであると確信し、そのようにして生きてきた人に、今までの表現方法を変えてもらうことは、これまでの生き方を否定することにもなり、困難をきたしてしまう。
実践場面では、面接者との関係の中で自分の感情を話すことに意味はあるのだが、なかなか話すことが出来ない。感情を表現することに対して、強い抵抗が起こるのである。あるいは、感情そのものがないと思い込んでしまっている。つまり、実際はいろいろなことを感じているのだが、あたかも自分はそのようなことを感じていないかのような状態になってしまっているのである。
さて、以上のような困難が起こったときには、臨床心理学的な視点からだと、どのような対応法があるのだろうか。児童のように言葉の獲得が十分できておらず、言語化が困難なときには、遊びを通してその中に表現されている内容を、面接者が受け止め、解釈し、本人に変わって言語化するという方法がある。つまり遊戯療法(play thrapy)等が考えられる。
また、急性ストレス障害(Acute Stress Disorder)や、心的外傷後ストレス障害(PTSD:Post Traumatic Stress Disorder)のように、恐怖や不安が強い体験の後には、自分の体験した内容を言葉にすることが難しい。そのような場合に、対象者に絵を描いてもらうことによって、直接的ではないにしてもその時の状態を表現したり、恐怖や、悲しみの感情を視覚的にイメージ化することもある。
その他に、夢を再現し、その夢を各々言語化したり行動化する体験、夢のワークもある。また、自分自身が身体のある部分になったようにしてその身体の部分としての思いや感じを言語化し、行動化する経験、ボディー・ワークもある。
本学では、面接をより効果的に行うために、あらかじめ前もって生徒さんに、相談内容を書いてもらうこと実践してきた。進路相談という面接場面では、言語化というと、話してもらうことになるが、言語化には話してもらうことだけではなく書いてもらうことも考えられ、これらを併用することが重要であると考えているからである。言語化は、もちろん直接口に出して言ってもらうことである。さまざまな援助の方法は、この言語化の場面として面接を捉えている。特に進路相談という面接の場面では、援助者に話すことが要求される。ところが話しの内容が進路相談という枠を越えて個人の悩み事にまで及んでくるような場合は、つまり話すことが難しいような場合には、生徒さんの感情を表現してもらう方法として、書いてもらうことも有効な方法となるのではないだろうか。この書いてもらうことの他の例としては、メールカウンセリング(mail counselling)があげられる。そこでは、生徒さんがメールしてくれる内容を内省行為ととらえ、自分の力で問題解決していけるようにしている。そして、内容か文字で打ち出されることに意味を持ってくるのではないか。
また、その内容として、専用シートに書いてもらうことによって心の重荷をおろし、問題の核心をはっきりさせて自己開示の活路を見出しているのではないか。ある人は面接相談(スクールソーシャルワーカー、カウンセリングや心理療法)を求めるであろうし、他の人は読書によって自己成長をはかり、またある人は日記や作文によって自己の心の悩みを吐露する。形式こそちがえ、すべてカタルシスなのであると考えられる。
以上のような、専用シートへの記入を利用した援助方法は、単独の方法として用いられている。しかしながら、書いてもらうことは単独で用いるより、言語化としての話すことを補助あるいは促進する方法として位置づける方がよいということも考えられる。それは、すでに述べたように、少なくとも、問題の原因の一つの場合としての対人関係の改善には、話すことがカタルシスにつながるからである。言語化は、直接他人に感情を言うことにその意味がある。そのため、書いてもらうことだけで終わってしまうのではなく、話してもらうことに積極的に結びつけることが必要なのではあるまいか。
そうなると、言語化には、話してもらうことと書いてもらうことの2つが存在することになる。しかし、それぞれの特徴は、いくつかの点で異なっている。この2つには、自分の感情を表現するという共通点はあるが、表現をする相手との関係において相違点がある。
不適応状態の行動は、相手との関係のゆがみ、コミュニケーションのゆがみを象徴している。相手との関係の修復を図るという立場から考えると、望ましい方法である話してもらうことができるためには、書いてもらうことというプロセスを経ることが効果的と言える。それでは、話してもらうことと書いてもらうことの違いとはどのような点であろうか。話してもらうときの特徴は、相手と向き合うという状況が必然的に想定される。そうすると、この話してもらうという行動には、相手との関係の質が重要な意味を持ってくるのである。自分の感情を出せないようになったのは、話してもらっても、受け入れてもらえないという過去の関係があったからである。そのため、話してもらうときにはそのときの受け入れてもらえなかった経験が影響を与え、話しても、受け入れてもらえないのではないかという不安の感情を引き起こしてしまうことになる。つまり、この不安が、話してもらうことの障壁となっているのである。
また、話してもらう時には、相手の表情や仕草が見える。そこでは、自分が話しているときや話したときやその後に、相手がどのような反応をとるのかがダイレクトに伝わってくるという特徴がある。言葉では受け入れているように振る舞っても、心の中で本当に受け入れる態勢がないと、そのことは自然に相手に伝わってしまう。つまり、非言語的コミュニケーション(non-verbal communication)を想定しないといけない。
面接を続けるなかで、面接者の受容的態度から受け入れてもらえるということが理解できたとしても、怒らないから話しなさいなどの以前に体験したことと同じことを思い出すこともある。そのときのように、相手を信じて本当のことを話したら、相手が怒り出したり、それまでの良好な関係が崩れたり、関係そのものが無くなったり、そのときに怒られたり、叱られたりといった嫌悪感が想起されるかもしれない。このようなことがあると、話したくても、話せないのは当然のことである。
他方、書いてもらうことの特徴は、読んでもらう相手はいるが、書くときには自分一人であるということである。そのため、自分独自のやり方で言葉にすることができる。相手が目の前にいないので、相手の反応にじゃまされることなく、一方的に自分の気持ちをぶつけることができる。表現したときに、すぐに批判されないことを確保できる。しかしながら、感情を自分で見つけ出し、それを書きとめるという作業が必要になる。相手との関係の中での、気づきは存在しない。
本学での進路相談という面接場面では、現在そのことをどのように思うのかということや、そのことをどう感じるかについても話し合うことができる。そういう意味で、面接者という他人に話すということを伴う面接というものは、非常に重要な意味がある。
もしこの進路相談という面接場面において相談内容が、単なる進路相談の範囲を越えて、個人的な悩みにまで話しが及ぶなら、もはやスクールソーシャルワークやカウンセリングの実践ととらえた方がよくなってくるのではないか。そして、この考え方から考察するならば、書いてもらうということは、生徒さんのいろいろと自分自身に関連した情報を教えてくれるばかりではなく、カタルシスにもなる場合があるということか分かってきた。典型的な例は、話してもらうことはできなくても書いてもらうことはできたりする場合に、シートの最初の記入部分は、進路相談に関することであるが、途中から個人的な悩みの記述になっている場合などがこれにあたる。
まず最初に話してもらうことの補助として書いてもらうことは、スクールソーシャルワーカーやカウンセラーとの緊張した関係から解放された状況の下で、自分の感情を密かに表現できると考えた方が自然なのではないだろうか。当然、援助者は受け入れてくれるはずだと思っていても、実際に受け入れてもらえるという体験をしないと、安心して表現はできない。この面接の初期段階での特徴としての問題を、書くことを活用することで補償することになる。
筆者は、面接を補い、促進するものとして、専用シートへの記入を活用することを提唱している。
そのことは、本当の悩みに気づかせるための手段として、相手に自分の心に浮かんだ内容について、
あらかじめ相談内容を書いてくるようにするのである。この方法によって、自分の本当の相談事に気づきはじめたりするのである。
具体的には、進路相談の内容と本当の不適応な感情を起こさせている出来事を別々に区別して記入してもらう、感情に起伏を起こさせるような出来事など、生徒さんが感じた内容を書いてもらう、どのような場面で、どうしてその相談事の内容を経験するにいたったのか、この不適応な感情を処理するのにどうしたか、そのことによって、自分自身の心的状態はどう変化したのか、などを書いてもらうことにしている。そして、この記述内容は、面接の話の素材となると考えられる。また、重要な点としては、相談事の内容を自分がどう記入するのかということだけでなく、持参した際に、自分が内容をどう認知しているか、気づくことであると考える。そして、書いてもらった内容を、進路相談の面接場面で読んでもらったりする。あるいは、面接者自身が代わりに読み上げる場合もある。そのときの感情を面接者は必ず受容する。さらに、そのことについて、現在どう思うかなどについて生徒と話し合いを続けていくのである。
面接の段階が進み、スクールソーシャルワーカーやカウンセラーと同様の信頼関係ができてくると、生徒は、次第に書いてもらったことを話すことで補うようになる。一応書いてきてくれるが、その内容について話してくれるようになる。また、問いかけなくても、自分が自主的に話してくれるようになる。さらに、書いてきてもらった内容とほぼ同じことを、書かれたものに頼ることなく、話してくれるようになる。
このように、面接の段階によって対人関係の質が変化していくに従って、書いてもらうことの意味や役割は変化していく。面接者に受け入れられるという体験が積み重ねられるにつれて、より直接的に話すことで感情を表現できるようになるのである。そして、まさにこの状態が、スクールソーシャルワークやカウンセリングの実践と同様の状態ということになる。
8.今後の課題
筆者は、スクールソーシャルワークの提唱を進めていきたいと考えている。なぜなら、学校(民間の塾・予備校もこの場合は含めるのだが)には、社会・臨床機関としての役割があると考えられる。社会機関としての役割として、社会規範の代表者・橋渡しとしての学校・教師の存在があげられ、認識されるべき事柄としては、学校・教師は、児童生徒に対して社会の規範や価値を代表している、教師は社会的な規範や価値や伝統に対して受容的でなければならない、学校内で機能する規則や命令は、社会的規範や通念を逸脱するものであってはならないと考えられる。
また、方法論としてのスクールソーシャルワークとしては、生徒指導から生徒支援への概念移行を模索し、学校教育の領域の拡大・独立化、特殊なイデオロギーからの脱却、領域概念から機能概念へ(教育活動の理念的高邁化)などを検討していく必要が考えられよう。
さらに、学校カウンセリングからスクールソーシャルワークへの概念移行も同時に検討していきたい。というのも、学校カウンセリングに関しては、カウンセリングを含めた幅広い教育活動を推進するのが、学校におけるカウンセリング活動と考えたり、教育相談(学校カウンセリング)は、生徒指導を行っていくうえでの中核となる1つの方法であるとする。そうすると、便宜的定義として使用されているカウンセリングの理論と技法を援用して行われる学校教育相談活動そのものが、カウンセリング関係と生徒指導関係との矛盾という結果を生み出しはしないだろうか。
ここであらためて筆者が提唱するスクールソーシャルワークについて考えてみるならば、その定義として、ソーシャルワークの理論と技法を援用して行われる生徒支援活動であり、教師と児童・生徒(親)の関係性を形成・構築していく過程であり、同時に、その関係性に基づいて行う個別的支援活動ということになる。目的としては、直接には学校(教育)の、間接には社会の価値や規範を実現するものであり、心理臨床上の特質に関しては、問題行動とは何か、あるいは児童・生徒にとって何が問題なのかを明確に認識して、子どもをどのように変容させるべきか、明確な治療の目標と方向づけをもった支援活動(個別的・実際的援助)ということになる。
他にも、面接場面で専用シートの記入を利用することは有効であり、話すことをサポートする、あるいは助長する手段として有効である点も見逃せない。しかし、専用シートに記入してもらうことをどのような観点から検討していけばよいかは、さらなる探究を必要とする。
また、例えば進路相談という面接場面の会話内容を、機材を導入してまで現実的にエスノメソドロジーのいう会話分析を行えるのであろうか。
本学での進路相談という面接場面をスクールソーシャルワークやカウンセリングの過程として見れば、いくつかの段階に分けられるが、同じ専用シートへの記入内容でも、その意味は段階によって異なってくると考えられる。従って、それぞれの段階でどのようなことが問題点となるのかについて、事例が増えてくることで、徐々に把握できるようになるであろう。また、専用シートをさらにどのように活用していくのか、話してもらうことへの変容をどうしていくのかなどは、進路相談の面接をつみかさねることで縦断的研究をしていく必要が考えられる。さらなる考察を今後も続けていきたいと思う。
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